Enoの音楽日記

人生、何があっても、音楽を聴くと、自分を取り戻します。

METライブビューイング「フリーダとディエゴ 最後の夢」

 METライブビューイング2025‐2026の最終演目「フリーダとディエゴ 最後の夢」。フリーダとはメキシコの女性画家フリーダ・カーロ(1907‐1954)、ディエゴとはメキシコの壁画画家ディエゴ・リヴェラ(1886‐1957)だ。二人は一時夫婦だったが、やがて別れ、その後また夫婦になった。その間ずっと二人の異性関係は奔放だった。それにもかかわらずお互いへの愛憎は人並外れて濃かった。その濃さはフリーダの多数の自画像とディエゴの壁画とどこか通じる。

 

 本作品は、フリーダが亡くなってから3年後に亡くなったディエゴの、最期のときに思いを巡らすフィクションだ。台本はニロ・クルス、作曲はガブリエラ・レナ・フランク。詳細は省くが、フリーダが複雑な血筋をひく混血だったのと同様に、ガブリエラ・レナ・フランクも複雑な血筋をひく混血だ。

 

 本作品は2幕からなる。正直に言うと、台本は、第1幕では冗長に感じたが、第2幕ではスピーディに進んだ。音楽は分かりやすい。ガブリエラ・レナ・フランクは幕間のインタビューで「どの楽器かよく分からない音を出したかった。2本のピッコロを狭い音域で重ね、そこにチェレスタを加えた」と言っていた。たしかにディエゴが息を引き取る場面でその音が聴こえた。また「メキシコの大地を表す楽器としてマリンバを使った」と言っていた。なるほどマリンバの低音のトレモロはそう聴こえた。

 

 演出・振付はデボラ・コルカーだ。ストリートダンスを思わせるダンスが特徴だ。そのダンスはメキシコの民衆のヴァイタリティと猥雑さを感じさせる。美術と衣装はジョン・ボーサーだ。あふれるばかりの原色を駆使した美術と衣装は、ダンスに劣らず、本プロダクションの特徴だ。加えて、第1幕のフリーダの登場の場面の衣装と第2幕の3人の女性コーラスの衣装は、フリーダ・カーロの肖像画から取っていた。

 

 フリーダ役はイザベル・レナード、ディエゴ役はカルロス・アルヴァレス。ともにメトロポリタン歌劇場の看板歌手だ。また本作品の特徴的な登場人物として、死者たちの番人のラ・カトリーナと女装をする男優のレオナルドがいる。ラ・カトリーナ役のガブリエラ・レイエスは怪演だ。レオナルド役のニルス・ヴァンダラーは狂言回しを好演した。

 

 指揮はヤニク・ネゼ=セガン。メトロポリタン歌劇場がコンスタントに現代オペラを上演できるのも、ヤニク・ネゼ=セガンが音楽監督でいるからだろう。メトロポリタン歌劇場は財政的な苦境に陥り、大幅なコストカットを進めているという。それでも現代オペラの上演を止めないことに感心する。METライブビューイング2026‐2027の演目にも8演目中1演目現代オペラが入っている。

(2026.7.23.東劇)

マルッキ/都響

 スザンナ・マルッキが都響に初登場した。マルッキは以前にN響で聴き、昨年は東響で聴いたが、そのどれにも感心した。都響のカラーにも合いそうなので、聴きに行った。結論から言うと、今回もすばらしかった。

 

 プログラム前半はデユカスの歌劇「アリアーヌと青ひげ」の第3幕への前奏曲とドビュッシーの「夜想曲」から「雲」と「祭」を続けて演奏するもの。まず「アリアーヌと青ひげ」の第3幕への前奏曲が始まる。寒色系のオーケストラの音色がすばらしい。続けてドビュッシーの「夜想曲」から「雲」が始まると、デユカスの音色との違いが際立つ。デユカスが寒色系の音色で統一されているのに対して、ドビュッシーは寒色系以外の音色も点綴される。多彩な音色が織り込まれたテクスチュアだ。今まで何度も聴いた「夜想曲」だが、その音色にあらためて気づかされた。

 

 都響の演奏には透明感があり、かつ心地よい緊張感があった。マルッキとの一体感が感じられる。マルッキがイメージする音を十全に実現しているのではないかと思われた。特筆すべきは、音の立ち上がりがフワッとして、音がつぶれないことだ。加えて、音の分離が良い。それこそがマルッキの音ではないかと思った。

 

 プログラム後半は、バルトークの歌劇「青ひげ公の城」。青ひげはジョン・レリエ、ユディットはシルヴィア・ヴェレシュ。前口上はレリエが舞台裏で語った(マイクを通して会場に流れた)。前口上を引き継ぐようにオーケストラ演奏が始まると、デユカスやドビュッシーで感じたマルッキの音がふたたび鳴った。細かい点だが、プロローグでユディットが「城が泣いている」と言うときと「城のため息だわ」と言うときに、オーケストラが微かな不協和音を鳴らす。わたしは今まで何度も「青ひげ公の城」を聴いたが、その不協和音には気が付かなかった。

 

 さらに決定的な印象を言うと、第7の扉の場面で青ひげが扉を開けることをためらうときに、オーケストラに揺れるような不安定な音程が現れる。それにもハッとした。バルトークの音楽の精妙さを言うべきだろうが、その精妙さをはっきり印象付けた演奏もすばらしい。マルッキは指揮姿の体幹の良さが特徴的だが、その体幹さながらの音程の良さとテンポの正確さが特徴だ。その特徴が現れた演奏だと思った。

 

 わたしは第7の扉の場面で、一瞬、レリエの声にPAの残響を感じた。それが気になり、帰宅後、いろいろな方の感想を読んでみると、樋口裕一氏がブログに「ただ、レリエの声になんとなくPAが入っているような感じだったが、気のせいだろうか」と書いておられた。わたしだけの感じ方ではなかったようだ。

(2026.7.18.東京芸術劇場)

高関健/東京シティ・フィル(ヴァイオリン独奏:荒井英治)

 高関健指揮東京シティ・フィルの定期演奏会。プログラムがショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲2曲(ヴァイオリン独奏は荒井英治)と武満徹なので、集客が難しそうなプログラムをよくやるなと思ったが、会場に行くと、意外に聴衆の入りは良かった。

 

 1曲目はショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第2番。第1番は比較的演奏機会が多いが、第2番は珍しいので、じっくり聴いた。とても面白かった。ショスタコーヴィチ晩年の作品だ。音に衰えというのではないが、老いを感じさせる。それがショスタコーヴィチの生の声のように聴こえた。この曲は十月革命50周年記念行事に際して作曲されたというが(柴田克彦氏のプログラムノート)、とてもそんな公的な曲には聴こえなかった。

 

 荒井英治の演奏はすばらしかった。楽器がよく鳴り、音には張りがあり、音楽に深く切りこむ。演奏に当たって、止むに止まれぬ衝動があると感じさせる。言い換えれば、なにかに憑かれたような演奏だ。荒井英治がショスタコーヴィチに傾倒していることはよく知られるが、わたしはいままでその真価を知らなかった。オーケストラの演奏もすばらしかった。曲をよく理解し、焦点の合った演奏をした。個別のパートでは、ホルンの1番奏者の谷あかねさんが表情豊かな演奏をした。

 

 休憩をはさんで、2曲目は武満徹の「ア・ウェイ・ア・ローンⅡ」。弦楽四重奏曲を弦楽合奏用に編曲した曲だ。久しぶりに聴いて、やはり武満トーンというものはあると思った。そしてこの曲の場合は、全編が武満トーンで覆われるというより、随所に武満トーンが現れるという、その程の良さが好ましいと思った。高関健と東京シティ・フィルの弦楽セクションの演奏は明確で、筋が通っていた。

 

 アクシデントは3曲目のショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番の第1楽章で起きた。荒井英治が第1番と同様になにかの衝動にかられたような演奏をし、それが佳境に入ったところで、突然弦が切れた。オーケストラは止まらなかったが、会場には戸惑いの空気が流れた。荒井英治はコンサートマスターの戸澤哲夫のヴァイオリンを借りて演奏を続けたが、不思議なもので、自分の楽器ではないからだろう、楽器が鳴らない。ともかく第1楽章の最後まで懸命に音を拾った。

 

 第2楽章以降は弦を張り替えた自分の楽器が戻り、張りのある音が鳴った。演奏終了後は会場から心のこもった温かい拍手が起きた。わたしはその拍手に感動した。弦が切れたこともドラマだが、会場の拍手もドラマだった。そういう拍手が起きたのは、荒井英治が一世一代の演奏をしようとしたからだろう。演奏はあらかじめ定められた範囲内に着地するのではなく、未知の領域に飛びこもうとするときに、感動を生むのだろう。

(2026.7.16.東京オペラシティ)

ヴァイグレ/読響

 ヴァイグレが指揮する読響の定期演奏会。以下、演奏順に感想を述べるが、先に結論を言うと、ヴァイグレはひじょうに好調そうだった。ヴァイグレと読響の呼吸が合い、見事な演奏を繰り広げた。地味なプログラムだったが、ヴァイグレと読響の成果のひとつとして、長く記憶に残りそうな演奏会だった。

 

 1曲目はジークフリート・マトゥス(1934‐2021)の「怒り狂う女」(1999年)。マトゥスは旧東ドイツの作曲家だ。東西ドイツの統合後、ドレスデンの聖母教会の再建献堂式のための典礼音楽を作曲した。「怒り狂う女」は演奏時間約10分の短い曲だが、鮮明な印象を残す音楽だ。特徴的な点は、途中に長いヴァイオリン・ソロがあり(コンサートマスターの林悠介が名演を聴かせた)、そのソロに打楽器のフレクサトーンが絡むことだ。フレクサトーンのビヨ~ンというなんとも言えない音に目をみはった。

 

 2曲目はショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第1番。チェロ独奏はダニエル・ミュラー=ショット。第1楽章は精力的にぐいぐい弾く。対照的に、第3楽章の長いカデンツァはじっくり聴かせる。楽器がよく鳴り、文句はないのだが、いまひとつ腑に落ちないものが残ったのはなぜだろう。アンコールにバッハの無伴奏チェロ組曲第3番からジーグを弾いた。それを聴いて思ったのだが、音がひとつの像を結ぶ前に、先へ行ってしまう感覚がある。ショスタコーヴィチで感じたこともそれだったのかと。

 

 3曲目はルディ・シュテファン(1887‐1915)の「交響的楽章」(1910年)。ヴァイグレと読響は2022年6月にシュテファンの「管弦楽のための音楽」(1912年)を演奏した。2曲の関係については、長木誠司氏がエッセイ「作曲家ルディ・シュテファンの肖像」(プログラムに掲載)で次のように書いている。「1910年の作品には〈管弦楽のための音楽(交響的楽章)〉というタイトルが与えられている。これは自費出版されてミュンヘンで初演されたものの、その後撤回されており、1912年にはより短い〈管弦楽のための音楽〉が新たに作曲された」と。

 

 ヴァイグレと読響の演奏はスケールが大きく、彫りが深くて、見事なものだった。演奏時間約25分の大作だが、ゆるみのない構築力を聴かせた。オーケストラの鳴りも良かった。また終盤でオルガンが入るが、その音の輝くばかりの光彩に息をのんだ。

 

 4曲目はリヒャルト・シュトラウスの「死と変容」。シュテファンの演奏で聴かせた構築力はこの曲でも同様だが、とくに感心したのは、コーダでの音の熱量だ。日本のオーケストラ特有のあっさりした音ではなく、欧米のオーケストラ並みの内から湧きあがる熱量があった。その熱量があってこその「死と変容」の変容だと思った。

(2026.7.14.サントリーホール)

フランソワ・ルルー/日本フィル

 日本フィルの東京定期の指揮者は、当初予定のネーメ・ヤルヴィが体調不良のためキャンセルして、フランソワ・ルルーに代わった。それに伴いプログラムも変更になった。当代一流のオーボエ奏者のフランソワ・ルルーが指揮者として日本フィルに登場するのは3度目だ。前2回の指揮が鮮烈な印象を残したので、今回も期待した。

 

 1曲目はベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏は諏訪内晶子。冒頭のオーケストラによる導入部がじつにニュアンス豊かに演奏された。ルルーのオーボエ演奏を彷彿とさせた。音色もまろやかで、無神経な音がない。引き続き入るヴァイオリン独奏がこれまたニュアンス豊かだ。ヴァイオリン独奏とオーケストラのニュアンスがシンクロしている。優れた音楽家同士が、お互いの演奏を分かりあい、共感しあってひとつの演奏を作りあげる。その現場を目撃する思いだった。

 

 第1楽章の長大なカデンツァが、あまり聴いたことのないカデンツァだった。導入部のタン、タン、タン、タンの4音のリズムから始まって、あれこれのテーマを徹底的に労作するカデンツァだ。だれの作だろう。帰宅後、クラシックナビを見てみると、柴田克彦氏がヨアヒム作だと書いていた。なお第2楽章と第3楽章の短いカデンツァはクライスラー作の割愛版とのこと。

 

 諏訪内晶子の演奏はずいぶん聴いてきたが、今回はその中でもとくに感銘を受けた演奏のひとつだ。それは、繰り返すが、豊かなニュアンス付けがオーケストラから浮かず、オーケストラと一体となってひとつの像を結んだからだ。なお諏訪内晶子はアンコールにバッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番からジーグを演奏した。音楽を前へ進める推進力に日本人離れしたものを感じた。

 

 2曲目はプロコフィエフの交響曲第5番。第1楽章では明るい音色がブレンドされ、オーケストラ全体がカラフルに輝くような音色を発し、その音に厚みのあるクッションのような感触があることに目をみはった。その音はまさにルルーのオーボエ演奏を彷彿とさせ、それをオーケストラ全体に敷衍したかのようだった。

 

 第2楽章のリズム主体の音楽の演奏にもスリルがあった。だが第3楽章の沈潜した音楽の演奏には、なぜか単調さを感じた。そしてフィナーレの第4楽章は、第2楽章の演奏のスリルを取り戻したというべきか、それとも第3楽章の演奏の単調さを引きずったというべきか、微妙だった。

 

 終演後、ルルーはカーテンコールでオーケストラの中を歩きまわり、各楽員、各パートを立たせ、盛んに拍手を受けさせた。そのオーケストラとの、そして聴衆とのコミュニケーション力は、ラザレフを彷彿とさせた。また、これは余談だが、白い上着を着たルルーの巨体はネーメ・ヤルヴィを彷彿とさせた。

(2026.7.11.サントリーホール)

ヴィトマン/都響「イェルク・ヴィトマンの音楽」

 東京オペラシティ恒例のコンポージアム2026。今年の武満徹作曲賞審査員はイェルク・ヴィトマンが招かれた。昨日はヴィトマンの音楽の演奏会。演奏はヴィトマン自身の指揮する都響。

 

 1曲目は「アルモニカ」(2006年)。ピエール・ブーレーズ指揮ウィーン・フィルが初演した曲だ。独奏楽器にグラスハーモニカが使われ、準独奏楽器にアコーディオンが使われる。グラスハーモニカはクリスタ・シェーンフェルディンガー(初演時の独奏者)、アコーディオンは大田智美。

 

 グラスハーモニカというと、モーツァルトの室内楽「グラスハーモニカのためのアダージョとロンド」を思い出す。私事だが、ずいぶん前にある友人が「葬儀のときにはモーツァルトのグラスハーモニカのためのアダージョとロンドをかけてくれ」と言って亡くなった。葬儀には仲間たちが集まり、個人の希望通りにした。たしかにモーツァルトの曲はしめやかな曲だが、一方、ヴィトマンの「アルモニカ」ではモーツァルトが考えもしなかったような激しい瞬間がある。衝撃的だ。

 

 2曲目は「アド・アブスルダム(不条理)」。トランペットと小オーケストラのための協奏曲だ。トランペット独奏はセルゲイ・ナカリャコフ。超絶技巧で走り抜ける。ナカリャコフを念頭に書かれた曲で、ナカリャコフ以外には演奏できないのではないかという気がする。超絶技巧のショーピースだ。最後に手回しオルガンが登場する。プロの手回しオルガン奏者・製作家のKoji Koji Mohejiの演奏。

 

 3曲目は「バビロン組曲」(2014年)。オペラの大作「バビロン」の音楽を自由に構成した曲だ。後述するように度肝を抜かれる曲だが、ヴィトマンらしいと言えばこれ以上ヴィトマンらしい曲もないように思う。演奏時間は約30分で休みなく続くが、その間アッと驚く瞬間の連続だ。具体的には、カーニバルのパレードのような音楽、それよりもさらにキッチュな音楽、甘い映画音楽のような音楽、そしてサイモンとガーファンクルの「スカボロフェア」の変形のように聴こえる音楽など、何でもありだ。音楽のあらゆるジャンルの垣根を取り払い、やりたい放題にやった感がある。

 

 力のない作曲家なら無残な結果になりかねない試みだが、そこはさすがにヴィトマンだ。それらのカオスを腕力で統御する。ものすごい力技だ。そのとき生まれるポジティブな活力が一種のエンタメ性をもち、聴衆を元気にする。よく指摘されることだが、ヴィトマンは優れたクラリネット奏者でもあるので、演奏家としての身体性が音楽を支えるのかもしれない。都響もリミッターを振り切った本気の演奏をした。

(2026.7.9.東京オペラシティ)

杉山洋一/N響「MUSIC TOMMOROW 2026」

 N響恒例の「MUSIC TOMMOROW 2026」。指揮は杉山洋一。1曲目は今年の尾高賞受賞作品である我妻英(わがつま・すぐる)の「祀」(まつる)。我妻英は1999年生まれ。「祀」は昨年の武満徹作曲賞受賞作品でもある。

 

 「祀」は柳田國男の「遠野物語」から想を得た作品だ。最大の特徴はオーケストラの楽員が絶叫することだ。正直言って、何を叫んでいるかはよく聞き取れないが(尾高賞の選考委員の一人・片山杜秀氏の選考評によると、「遠野物語」の登場人物や神々の名前らしい)、ともかく音楽としては異様であり、むしろ演劇的な要素を感じる。N響の楽員は恥ずかしがらずに文字通り絶叫した。拍手だ。

 

 2曲目は当日の指揮者の杉山洋一の新作「夢へのきざはし」。「祀」のカオスのような音響を聴いた後なので、余計にすっきりした音響に聴こえた。特徴的な点は、中間部に現れる木管楽器の素朴な歌だ。素朴という形容詞は、鄙びたと言い換えてもいい。ともかく何かを呟くような歌だ。それがずっと続く。聴いた後で、あれは何だったのだろうという思いが残る。なお本作品はN響100年記念委嘱作品だ。

 

 3曲目はピエルルイジ・ビローネPierluigi Billoneの「ボッカ・コスモイ」Bocca.Kosmoiだ。ビローネは1960年イタリア生まれでウィーン在住の作曲家。ボッカ・コスモイとは「宇宙の口」という意味だ(白石美雪氏のプログラムノートによる)。

 

 これは大変面白い曲だった。端的に言って、音のイメージをはっきり持つ曲だ。しかもイメージ通りの音を鳴らす術を心得ている。ビローネは初めましての作曲家だったが、しっかりその名前を覚えた。

 

 では、どんな音のイメージかと言うと、タイトルの「宇宙の口」が示すように、宇宙がぽっかり口を開け、その奥の暗闇が覗くような音のイメージだ。何か得体のしれない音響。それが不気味に鳴る。特徴は声とトロンボーンのソロが入ることだ。ともにPAが使われ、声は鋭く断片的な音声を発し、トロンボーンはミュートを駆使しながら何とも形容のしようのない音を鳴らす。声はソプラノの藤田果玲(ふじた・かれら)、トロンボーンはN響首席奏者の新田幹男。ともに好演した。

 

 オーケストラは基本的に3管編成だが、弦楽器が3グループに分かれ(コントラバスは舞台下手、中央、上手に2本ずつ配置される)、通常のオーケストレーションとは異なる動きをする。白石美雪氏は「形式的な法則に従うことのない多様な音群からエネルギーが生まれ、幻想的な音像を作りながら複層的に展開される」と書く(プログラムノート)。

(2026.7.3.東京オペラシティ)