Enoの音楽日記

人生、何があっても、音楽を聴くと、自分を取り戻します。

ヴァイグレ/読響

 ヴァイグレが指揮する読響の定期演奏会。以下、演奏順に感想を述べるが、先に結論を言うと、ヴァイグレはひじょうに好調そうだった。ヴァイグレと読響の呼吸が合い、見事な演奏を繰り広げた。地味なプログラムだったが、ヴァイグレと読響の成果のひとつとして、長く記憶に残りそうな演奏会だった。

 

 1曲目はジークフリート・マトゥス(1934‐2021)の「怒り狂う女」(1999年)。マトゥスは旧東ドイツの作曲家だ。東西ドイツの統合後、ドレスデンの聖母教会の再建献堂式のための典礼音楽を作曲した。「怒り狂う女」は演奏時間約10分の短い曲だが、鮮明な印象を残す音楽だ。特徴的な点は、途中に長いヴァイオリン・ソロがあり(コンサートマスターの林悠介が名演を聴かせた)、そのソロに打楽器のフレクサトーンが絡むことだ。フレクサトーンのビヨ~ンというなんとも言えない音に目をみはった。

 

 2曲目はショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第1番。チェロ独奏はダニエル・ミュラー=ショット。第1楽章は精力的にぐいぐい弾く。対照的に、第3楽章の長いカデンツァはじっくり聴かせる。楽器がよく鳴り、文句はないのだが、いまひとつ腑に落ちないものが残ったのはなぜだろう。アンコールにバッハの無伴奏チェロ組曲第3番からジーグを弾いた。それを聴いて思ったのだが、音がひとつの像を結ぶ前に、先へ行ってしまう感覚がある。ショスタコーヴィチで感じたこともそれだったのかと。

 

 3曲目はルディ・シュテファン(1887‐1915)の「交響的楽章」(1910年)。ヴァイグレと読響は2022年6月にシュテファンの「管弦楽のための音楽」(1912年)を演奏した。2曲の関係については、長木誠司氏がエッセイ「作曲家ルディ・シュテファンの肖像」(プログラムに掲載)で次のように書いている。「1910年の作品には〈管弦楽のための音楽(交響的楽章)〉というタイトルが与えられている。これは自費出版されてミュンヘンで初演されたものの、その後撤回されており、1912年にはより短い〈管弦楽のための音楽〉が新たに作曲された」と。

 

 ヴァイグレと読響の演奏はスケールが大きく、彫りが深くて、見事なものだった。演奏時間約25分の大作だが、ゆるみのない構築力を聴かせた。オーケストラの鳴りも良かった。また終盤でオルガンが入るが、その音の輝くばかりの光彩に息をのんだ。

 

 4曲目はリヒャルト・シュトラウスの「死と変容」。シュテファンの演奏で聴かせた構築力はこの曲でも同様だが、とくに感心したのは、コーダでの音の熱量だ。日本のオーケストラ特有のあっさりした音ではなく、欧米のオーケストラ並みの内から湧きあがる熱量があった。その熱量があってこその「死と変容」の変容だと思った。

(2026.7.14.サントリーホール)

フランソワ・ルルー/日本フィル

 日本フィルの東京定期の指揮者は、当初予定のネーメ・ヤルヴィが体調不良のためキャンセルして、フランソワ・ルルーに代わった。それに伴いプログラムも変更になった。当代一流のオーボエ奏者のフランソワ・ルルーが指揮者として日本フィルに登場するのは3度目だ。前2回の指揮が鮮烈な印象を残したので、今回も期待した。

 

 1曲目はベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏は諏訪内晶子。冒頭のオーケストラによる導入部がじつにニュアンス豊かに演奏された。ルルーのオーボエ演奏を彷彿とさせた。音色もまろやかで、無神経な音がない。引き続き入るヴァイオリン独奏がこれまたニュアンス豊かだ。ヴァイオリン独奏とオーケストラのニュアンスがシンクロしている。優れた音楽家同士が、お互いの演奏を分かりあい、共感しあってひとつの演奏を作りあげる。その現場を目撃する思いだった。

 

 第1楽章の長大なカデンツァが、あまり聴いたことのないカデンツァだった。導入部のタン、タン、タン、タンの4音のリズムから始まって、あれこれのテーマを徹底的に労作するカデンツァだ。だれの作だろう。帰宅後、クラシックナビを見てみると、柴田克彦氏がヨアヒム作だと書いていた。なお第2楽章と第3楽章の短いカデンツァはクライスラー作の割愛版とのこと。

 

 諏訪内晶子の演奏はずいぶん聴いてきたが、今回はその中でもとくに感銘を受けた演奏のひとつだ。それは、繰り返すが、豊かなニュアンス付けがオーケストラから浮かず、オーケストラと一体となってひとつの像を結んだからだ。なお諏訪内晶子はアンコールにバッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番からジーグを演奏した。音楽を前へ進める推進力に日本人離れしたものを感じた。

 

 2曲目はプロコフィエフの交響曲第5番。第1楽章では明るい音色がブレンドされ、オーケストラ全体がカラフルに輝くような音色を発し、その音に厚みのあるクッションのような感触があることに目をみはった。その音はまさにルルーのオーボエ演奏を彷彿とさせ、それをオーケストラ全体に敷衍したかのようだった。

 

 第2楽章のリズム主体の音楽の演奏にもスリルがあった。だが第3楽章の沈潜した音楽の演奏には、なぜか単調さを感じた。そしてフィナーレの第4楽章は、第2楽章の演奏のスリルを取り戻したというべきか、それとも第3楽章の演奏の単調さを引きずったというべきか、微妙だった。

 

 終演後、ルルーはカーテンコールでオーケストラの中を歩きまわり、各楽員、各パートを立たせ、盛んに拍手を受けさせた。そのオーケストラとの、そして聴衆とのコミュニケーション力は、ラザレフを彷彿とさせた。また、これは余談だが、白い上着を着たルルーの巨体はネーメ・ヤルヴィを彷彿とさせた。

(2026.7.11.サントリーホール)

ヴィトマン/都響「イェルク・ヴィトマンの音楽」

 東京オペラシティ恒例のコンポージアム2026。今年の武満徹作曲賞審査員はイェルク・ヴィトマンが招かれた。昨日はヴィトマンの音楽の演奏会。演奏はヴィトマン自身の指揮する都響。

 

 1曲目は「アルモニカ」(2006年)。ピエール・ブーレーズ指揮ウィーン・フィルが初演した曲だ。独奏楽器にグラスハーモニカが使われ、準独奏楽器にアコーディオンが使われる。グラスハーモニカはクリスタ・シェーンフェルディンガー(初演時の独奏者)、アコーディオンは大田智美。

 

 グラスハーモニカというと、モーツァルトの室内楽「グラスハーモニカのためのアダージョとロンド」を思い出す。私事だが、ずいぶん前にある友人が「葬儀のときにはモーツァルトのグラスハーモニカのためのアダージョとロンドをかけてくれ」と言って亡くなった。葬儀には仲間たちが集まり、個人の希望通りにした。たしかにモーツァルトの曲はしめやかな曲だが、一方、ヴィトマンの「アルモニカ」ではモーツァルトが考えもしなかったような激しい瞬間がある。衝撃的だ。

 

 2曲目は「アド・アブスルダム(不条理)」。トランペットと小オーケストラのための協奏曲だ。トランペット独奏はセルゲイ・ナカリャコフ。超絶技巧で走り抜ける。ナカリャコフを念頭に書かれた曲で、ナカリャコフ以外には演奏できないのではないかという気がする。超絶技巧のショーピースだ。最後に手回しオルガンが登場する。プロの手回しオルガン奏者・製作家のKoji Koji Mohejiの演奏。

 

 3曲目は「バビロン組曲」(2014年)。オペラの大作「バビロン」の音楽を自由に構成した曲だ。後述するように度肝を抜かれる曲だが、ヴィトマンらしいと言えばこれ以上ヴィトマンらしい曲もないように思う。演奏時間は約30分で休みなく続くが、その間アッと驚く瞬間の連続だ。具体的には、カーニバルのパレードのような音楽、それよりもさらにキッチュな音楽、甘い映画音楽のような音楽、そしてサイモンとガーファンクルの「スカボロフェア」の変形のように聴こえる音楽など、何でもありだ。音楽のあらゆるジャンルの垣根を取り払い、やりたい放題にやった感がある。

 

 力のない作曲家なら無残な結果になりかねない試みだが、そこはさすがにヴィトマンだ。それらのカオスを腕力で統御する。ものすごい力技だ。そのとき生まれるポジティブな活力が一種のエンタメ性をもち、聴衆を元気にする。よく指摘されることだが、ヴィトマンは優れたクラリネット奏者でもあるので、演奏家としての身体性が音楽を支えるのかもしれない。都響もリミッターを振り切った本気の演奏をした。

(2026.7.9.東京オペラシティ)

杉山洋一/N響「MUSIC TOMMOROW 2026」

 N響恒例の「MUSIC TOMMOROW 2026」。指揮は杉山洋一。1曲目は今年の尾高賞受賞作品である我妻英(わがつま・すぐる)の「祀」(まつる)。我妻英は1999年生まれ。「祀」は昨年の武満徹作曲賞受賞作品でもある。

 

 「祀」は柳田國男の「遠野物語」から想を得た作品だ。最大の特徴はオーケストラの楽員が絶叫することだ。正直言って、何を叫んでいるかはよく聞き取れないが(尾高賞の選考委員の一人・片山杜秀氏の選考評によると、「遠野物語」の登場人物や神々の名前らしい)、ともかく音楽としては異様であり、むしろ演劇的な要素を感じる。N響の楽員は恥ずかしがらずに文字通り絶叫した。拍手だ。

 

 2曲目は当日の指揮者の杉山洋一の新作「夢へのきざはし」。「祀」のカオスのような音響を聴いた後なので、余計にすっきりした音響に聴こえた。特徴的な点は、中間部に現れる木管楽器の素朴な歌だ。素朴という形容詞は、鄙びたと言い換えてもいい。ともかく何かを呟くような歌だ。それがずっと続く。聴いた後で、あれは何だったのだろうという思いが残る。なお本作品はN響100年記念委嘱作品だ。

 

 3曲目はピエルルイジ・ビローネPierluigi Billoneの「ボッカ・コスモイ」Bocca.Kosmoiだ。ビローネは1960年イタリア生まれでウィーン在住の作曲家。ボッカ・コスモイとは「宇宙の口」という意味だ(白石美雪氏のプログラムノートによる)。

 

 これは大変面白い曲だった。端的に言って、音のイメージをはっきり持つ曲だ。しかもイメージ通りの音を鳴らす術を心得ている。ビローネは初めましての作曲家だったが、しっかりその名前を覚えた。

 

 では、どんな音のイメージかと言うと、タイトルの「宇宙の口」が示すように、宇宙がぽっかり口を開け、その奥の暗闇が覗くような音のイメージだ。何か得体のしれない音響。それが不気味に鳴る。特徴は声とトロンボーンのソロが入ることだ。ともにPAが使われ、声は鋭く断片的な音声を発し、トロンボーンはミュートを駆使しながら何とも形容のしようのない音を鳴らす。声はソプラノの藤田果玲(ふじた・かれら)、トロンボーンはN響首席奏者の新田幹男。ともに好演した。

 

 オーケストラは基本的に3管編成だが、弦楽器が3グループに分かれ(コントラバスは舞台下手、中央、上手に2本ずつ配置される)、通常のオーケストレーションとは異なる動きをする。白石美雪氏は「形式的な法則に従うことのない多様な音群からエネルギーが生まれ、幻想的な音像を作りながら複層的に展開される」と書く(プログラムノート)。

(2026.7.3.東京オペラシティ)

森美術館「ロン・ミュエク展」

 森美術館で開催中の「ロン・ミュエク展」。会期は4月29日から9月23日までだ。ゴールデンウイークと夏休み期間をカバーしている。たしかに本展は子どもも喜ぶような展覧会だ。むしろ、難しい理屈を考える大人よりも、なんの先入観もない子どものほうが素朴に作品を楽しめるかもしれない。

 

 チラシ(↑)には頭蓋骨が写っている。ギョッとするかもしれないが、会場で見ると気味悪い感じはしない。むしろ笑ってしまう。何人もの人が頭蓋骨をバックに自撮りしている(本展では全作品が撮影自由だ)。

 

 本作品は「マス」という作品だ。巨大な頭蓋骨が100個山積みにされている。まるで瓦礫の山のようだ。わたしたちはその間を歩きながら鑑賞する。頭蓋骨は何かが少しずつ違っている。一番わかりやすいのは歯だ。歯が何本か残っていたり(残っている歯は前歯だったり、奥歯だったり)、また歯が全部抜けていたりと、さまざまだ。

 

 鑑賞者は本作品を見て死を想うだろうか。少なくともわたしは、あっけらかんとした乾いたユーモアを感じた。死のジメジメとした感じはなかった。死にこだわれば、本作品は死の無名化のメタファーかもしれないが(たとえば戦場のような)、ことさら死にこだわる必要はないような気がした。

 

 「マス」と対照的な作品が「ダークプレイス」だ。「マス」は鑑賞者と作品とが「一対無数」の関係になるが、「ダークプレイス」は「一対一」の関係になるからだ。「ダークプレイス」では暗闇のなかに中年男性の顔が浮かぶ。その前に立つのはわたし一人だ(なので、鑑賞者が多い場合には順番待ちになる)。わたしは周囲を暗闇に閉ざされ、中年男性の顔と対峙する。わたしは男を見ているのか、男に見られているのか、わからなくなる。凄みのある作品だが、案外、子どもは本作品を見て、「こわ~い」と言いながら面白がるのではないだろうか。子どものそんな感性がうらやましい。

 

 「イン・ベッド」は巨大な中年女性がベッドに横たわる作品だ。女性はシーツから顔を出し、戸惑ったような表情をしている。たくさんの人が近寄って写真を撮っている。わたしはなぜか複雑な気持ちになった。ベッドはもっとも私的な空間だ。そこに他人が押しかける。これは何かのメタファーではないだろうかと。

 

 ロン・ミュエクは1958年にオーストラリアに生まれ、現在はイギリスに住む現代美術家だ。本展は2023年にパリで開催され、ミラノ、ソウルを巡回して東京に来た。

(2026.6.12.森美術館)

【参考】本展のHPに全作品の画像が掲載されている。

上岡敏之/読響

 上岡敏之が指揮する読響の定期演奏会。1曲目はグリーグのピアノ協奏曲だ。ピアノ独奏には今93歳のホアキン・アチュカロが予定されていたが、前日(6月22日)の朝に転倒して負傷したとのことで、田部京子に代わった。

 

 第1楽章の第1主題は通常のテンポだったが、第2主題では異常に遅いテンポになった。たとえて言えば、漢字を書くときに一点一画を確認しながら書くような演奏なので、テンポが伸びる。第2主題が登場するたびにそのテンポになるので、第1楽章全体が遅く感じられた。アダージョの第2楽章は言うまでもなく遅かった。

 

 わたしはふと考えた。上岡敏之はホアキン・アチュカロが独奏者であってもこのテンポでやったのだろうか。さらに言えば、アチュカロが転倒したのは前日とのことだが、すでにアチュカロはリハーサルに参加していたのだろうか、と。

 

 田部京子はアンコールを弾かなかったが、その理由は2曲目のショスタコーヴィチの交響曲第8番になってわかった。ショスタコーヴィチの演奏は1曲目のグリーグに輪をかけて遅かったからだ。アンコールを演奏すればその分時間がかかるから。

 

 ショスタコーヴィチの交響曲第8番は異様な演奏だった。まず全体像から言うと、通常はこの曲の演奏時間は約60分だが、今回は80分以上かかった(演奏時間は大雑把だ。あくまでも目安程度に考えてもらいたい)。しかも通常は演奏時間の約半分を占める第1楽章が、今回は異様に遅かった。第2楽章以下はそれほど極端な遅さではなかったが、第1楽章が異様に遅かったので、全体が長くなった。

 

 その第1楽章も、のべつ幕なしに遅かったわけではない。中間部の後半のアレグロは通常のテンポに近かった。だが、その前後が異様に遅かった。では、そういうテンポで演奏すると、どんな演奏になるか。一番わかりやすい例で言うと、コーダのイングリッシュ・ホルンの長大なソロが、一音一音ロングトーンのようになる、と言ったら言い過ぎかもしれないが、実感的には、そんな気の遠くなるような感覚になった。

 

 イングリッシュ・ホルンのソロは一例にすぎないが、総括的に言えば、そのような極端に遅いテンポでは、音楽の物語性(最近流行りの言葉で言えば、ナラティブだ)が後退し、音の響きが前面に出た。結果的に、わたしは今までショスタコーヴィチと刻印された物語を聴いていたのだと気づかされた。今回の演奏では音楽から物語性が剥奪され、むしろ匿名性を帯びた音響(その音響はすさまじいものだ)を感じた――そんな前代未聞の経験をしたように感じる。

(2026.6.23.サントリーホール)

尾高忠明/N響&HIMARI

 今話題のHIMARIが出演するN響定期のCプロ。チケットは二日間とも完売だ。わたしはHIMARIを聴くのは初めてだ。どんな才能なのか、楽しみだった。指揮は尾高忠明だ。

 

 1曲目はシベリウスの「アンダンテ・フェスティーヴォ」。弦楽器がクリアな音でよく鳴る。良い演奏だと思ったが、なにせ短い曲なので、「そうですか」という以上の感想が浮かばない。最後にティンパニが短いロール打ちを入れるが、演奏終了後、尾高忠明がティパニ奏者を立たせていた。ちょっと意外だった。

 

 2曲目がお目当てのHIMARIの登場だ。曲はシベリウスのヴァイオリン協奏曲。冒頭の弦楽器のトレモロに乗って独奏ヴァイオリンが入ってくるところで、独奏ヴァイオリンがどう演奏するかが、まず注目の的だが、HIMARIの演奏は音が小さい。小さいだけならそれもひとつの解釈だが、その音で語りかけるものがない。以下、第1楽章を通して、速いパッセージは正確に弾いているが、長い音に力がないことを感じた。語弊があるが、実感としては、きゃしゃな音と感じた。

 

 正直、これで第2楽章はどうなるかと危惧した。残念ながら、その危惧は外れなかった。淡々とした演奏が続いた。速いパッセージは良さそうなので、第3楽章に期待したが挽回できなかった。なおアンコールにバッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番からサラバンドが演奏された。清潔な演奏だったが、シベリウスで感じた音の力のなさは変わらなかった。

 

 念のために言うと、客席からは数人のブラーヴァの声が飛んだ。わたしはHIMARIに特別なものを感じなかったが、感動した人もいるのだろう。

 

 3曲目はラフマニノフの交響曲第3番だ。尾高忠明が作品を手中に収めた演奏だ。すべてのディテールを掌握し、揺るぎないテンポ感のある演奏。それは尾高忠明の特質かもしれないが、それに加えて今回感心した点は、尾高忠明が精いっぱい自分を解放した点だ。時として自分を解放する一歩手前で終わるきらいのある尾高忠明だが、今回は十分に解放した。だが、だからこそ感じたのかもしれないが、十分にダイナミックで、申し分のない造形であるにもかかわらず、多少厳しい言い方になるが、なにか予想もつかないことが起きた演奏ではなかった。その点でどこか生煮えの澱が残った。

 

 細かい部分では、第2楽章のスケルツォ風のところで、ハープだけではなく、チェレスタが鮮明に聴こえたことが印象的だ。わたしはハッとして、演奏終了後、プログラムの楽器編成を見たら、なぜかチェレスタの記載がなかった。

(2026.6.20.NHKホール)